東京医科大学が入試において女子学生を不利に扱っていた事が明るみに出た。
得点操作に使われていたのが小論文だ。さて、これから小論文型の入試を重視しようという大学入試改革は、そのまま進めて良いのだろうか?
そもそも医学部においては面接や小論文が課せられる事が多いが、これは「医者になる者は学力だけでなく、それにふさわしい人間であるかどうかを見なければならない」ということで、学力テストでは見られない人間性を見るという一見すばらしい理由で行われるようになったものである。
 一方、今回の大学入試改革は、現状の入試が知識に偏っており、IT時代(知識はスマホですぐに調べられる時代)に知識を頭に詰め込むだけの人間を量産しても仕方ないだろう、という趣旨であったと思う。
 しかしながら、非学力入試つまり、AO入試や論文入試が公正に行われる保証はあるのか?今回の不正でも学科試験の点数はいじりにくかったのか、小論文の点数を操作している。

 日本において、入試制度は公正に運営されていると信じることは出来るのだろうか。
私は、大学の人たちを信じるのは無理があるのと思う。日本における正義は村の正義であり、普遍的な正義ではないからである。
普遍的な正義と言っても、同じ文明を共有するという規模においての普遍、同じ文化圏・宗教においての普遍性に過ぎないわけだが、「村」に比べれば格段に広く、信頼性が高い。村の正義がまかり通る辺境で公平性を重んじるなら、不正のばれやすい学力試験に戻るべきであろう。そもそも短時間の面接で人間性などわからないことは、ここ数年の医学部生の破廉恥事件で明らかになったであろう。

 それでは現行の学力試験は、単なる暗記試験なのか?
そうともいいきれまい、と思う。確かにセンター試験レベルなら、暗記が大半であろうが、例えば東大の数学の試験は思考力を問おうとしていると言っても良いであろう。思考力というと、その場で考えて上手い考えが浮かべばOKのようなテストがなされがちだが、現行の入試においても、公式なりを覚えてそれを問題を解くのは、どの公式をどう当てはめれば良いのか、思考力を問うているといえる。また。公式等を理解する段階においても深い思考力の訓練をしているといえる。受験勉強の最中に問題と取り組むうちに深い思考を繰り返し、より深い内容を理解するという訓練をしているのである。それを検査するのに便利な教科が数学であり算数であるため、この教科が受験においては中心となっているのである。
 もちろん数学も暗記だと言われる事があるが、数学の場合は漢字のような解答の丸暗記ではなくて、理解を伴っての暗記である。思考しながらの暗記である。思考力が無くて解答を丸暗記しても、全く同じ問題が出ない以上役には立たないのだ。このような思考力の使い方は、決して入試会場で思いついた者が勝つような、「ああ、その手かあったか」的な発想を見るテストより、より思考能力を判断できるとおもわれる。

 学力入試を軽視して、低学力人間が表現力を磨いて上手いことを言っても、そんな作文には価値はないだろうと思う。ましてや、それが不正入試に利用されやすいとなれば、そんな入試を推し進めるのはいかがなものであろうか。
入試を行う側が「村の正義」を隠し持つ限り、非学力入試は不正入試に隠れ蓑として重宝され続けるであろう。